金鳳釵
久生十蘭
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
金鳳釵
久生十蘭
棺桶
「……そうすると、中玄関の敷台へ葬具を下ろしたときに手代が出てきて、ご病人はいま急に持ちなおしたから、すまないが、これは引きとってくれと言ったというんですな」
深川、霊巌寺門前町(れいがんじもんぜんまち)の葬具屋、平野屋の店さき。
上り框へ腰をかけた顎十郎に応待しているのは、ひと掴みほどの白髪の髷を頭にのせた平野屋の隠居の伝右衛門。腰が曲って、だいぶ耳が遠い。身体をふたつに折り曲げてキチンと膝に手をおき、
「さようでございます。敷台へ湯灌の道具をおろしているところへ、奥から手代が飛んで出てきて、そういう話。棺もおろすやおろさずですぐ引きとってまいりました。……先刻も申しあげましたように、お米さんと手前どもの孫娘のお浪とは踊の朋輩。踊の帰りにはいつも遊びに寄って、お浪とふたりで復習(さら)っていましただけに、時疫(じやみ)で枕もあがらぬということで案じておりましたところ、七日の夕方の五ツごろ、万屋から使いがあって先ほど息を引きとったからすぐ棺をということですから孫娘の仲のいい友達、せめて棺だけはじぶんで背負って行ってやろうと、小僧に湯灌のものをかつがせ、杖をつきつき万屋まで届けにまいりましてございます」
「なるほど、念のためにもう一度おうかがいしますが、棺はけっして玄関から奥へ入らなかったんですな」
「奥へ運びますどころか、背からおろすやおろさず……」
顎十郎は、バラリと腕をといて、
「なるほど、よくわかりました。序(ついで)のことにもうひとつ馬鹿なことをお訊ねしますが、もしかして、万屋まで背負って行く途中で、道ばたへ棺をおろして休んだようなことはありませんでしたか」
「茂森町といえばつい目と鼻のさき、おろすも休むもそんな暇もないわけで……」
「いや、ごもっとも。世の中にはいろいろ変ったこともあるものですが、ひょっとして、背中の棺がその日にかぎっていつもよりしょい重りがしたというようなことはございませんでしたか」
「……棺桶といえば椹(さわら)か杉にかぎったもの。棺桶は棺桶だけの重さ。その日にかぎって重かろうわけなぞありますものか。老人をおからかいなすっちゃいけません」
「いや、どうもこれは失礼。飛んだお手間を……」
トホンとした顔つきで平野屋の店さきを出ると、そこから霊巌寺門前町の浄心寺の境内。