金鳳釵
久生十蘭
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
金鳳釵
久生十蘭
花婿(はなむこ)
二十四日の亀戸天神(かめいどてんじん)様のお祭の夜からふりだした雨が、三十一日になっても降りやまない。
神田佐久間町の焙烙(ほうろく)長屋のドンづまり。古井戸と長屋雪隠(せっちん)をまむかいにひかえ、雨水が溝(どぶ)を谷川のような音をたてて流れる。風流といえば風流。
火鉢でもほしいような薄ら寒い七ツさがり。火の気のない六畳で裸の脛をだきながらアコ長ととど助がぼんやり雨脚を眺めているところへ、油障子を引きあけて入って来たのが、北町奉行所のお手付、顎十郎のおかげでいまはいい顔になっている神田の御用聞、ひょろりの松五郎。
二升入りの大きな角樽(つのだる)をさげニヤニヤ笑いをしながらあがって来て、
「へへへ、案の定(じょう)ひどくシケていますね。たぶん、こんなこったろうと思ってこうしてお見舞いにあがりました。今朝『宇多川(うたがわ)』に着いたばかりの常陸(ひたち)の地廻り新酒、霜腹(しもばら)よけに一杯やって元気をつけてください。……こうしておいて、またいつか智慧を借りようという欲得づく」
いいほどに飲んでいるところへ『神田川』から鰻の岡持(おかもち)がはいる。すっかり元気になって三人鼎(かなえ)になって世間話をしていたが、そのうちにひょろ松は、なにか思い出したように膝を打って、
「阿古十郎さんもとど助さんも、そとで稼ぐ商売だからもうご存じかも知れませんが。……阿古十郎さん、万和(まんわ)の金の簪の話をお聴きになりましたか」
「万和といえば深川木場の大物持ち。吉原で馬鹿な遊びをするから奈良茂(ならも)のほうがよく知れているが、金のあるだんになったら、万屋和助は奈良茂の十層倍、茂森町(しげもりちょう)三町四方をそっくり自分の屋敷にし、堀に浮かした材木をぬかして五十万両は動かぬという話。姉娘のお梅というのが叔父の娘の花世の友達で、ちょくちょく金助町へ遊びに来ていたから顔は一二度見たことがある。……それで、万和の金の簪というのは、いったいどんな話だ」
ひょろ松は、なんということはなく坐りなおして、
「それがどうも、じつに奇妙。そのまま怪談にでもなりそうな筋なンです。時雨(しぐれ)がかったこんな薄ら寒い晩にはもってこいという話。……明日から月代りで今日一日は暇。ご存じなかったら、ひとつ、お話しましょうか」
「ひどく改まったな。が、落のあるのはごめんだぜ」
ひょろ松は、膝をにじり出して、
「まア、まぜっかえさずにお聴きなさい。……話はすこし古くなるンですが、今からちょうど十五年前。おなじ木場に山崎屋金右衛門という材木問屋。金三郎という八つになる伜があり、万和のほうには、いまあなたがおっしゃったお梅という娘があって、当時これが四つ。万屋のほうも山崎屋のほうもおなじく木曽から出てきて、もとをたずねると遠い血つづき。これまでも親類同様、互いに力になりあってやって来たのだから、いっそお梅さんを金三郎の嫁に、というと、それはなによりの思いつきというわけで、襁褓(むつき)のうちから二人を許婚(いいなずけ)にし、山崎屋から万和へ約束のしるしに鳳凰(ほうおう)を彫った金無垢の簪をやって、二人の婚礼の日を楽しみにしていたンです」